奥野の映画評論コーナー

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批評『キングスマン:ゴールデン・サークル』~新たなスパイ映画~

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 年が明け、日本中の映画ファンの多くが待ち望んでいたであろうスパイ映画の続編がついに日本で公開となった。

キングスマン:ゴールデン・サークル」である。

前作「キングスマン」の大ファンである私にとって、公開初日に劇場で観ないという選択肢は勿論無く、公開から二日間で二回この作品をIMAXで鑑賞させてもらった。今回は本作の膨大な魅力を伝えるのにTwitterの140文字では余りにも少なすぎるため、このような形で筆を取ることにした。

なお物語に大きく関わる事柄についての言及、いわゆるネタバレは一切含まないため、まだ本作を観ていない方も安心して目を通して頂きたい。

 

まずこの映画を語るには、近年のスパイ映画の潮流から話す必要があるだろう。

マット・デイモン主演のボーンシリーズ、ダニエル・クレイグが主演になってからの新生ボンドなど、近年のスパイアクション映画はリアル化・シリアス化に向かっている傾向にある。

それらを真っ向から批判し、スパイ映画全盛期60〜70年代を彷彿とさせる、リアリティを排除した荒唐無稽な映画、それが前作の「キングスマン」であった。そしてその空気感を今作もしっかり受け継いでいる。

別の言い方をするならこの映画は、時代遅れとされるコンテンツにあえて手を出し、オリジナリティという名のカスタムパーツを使い、時代遅れという名の高級車を乗りこなしてみせたのだ。

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さて前置きはこのくらいにしておき、本題に入らせてもらおうと思う。

 まず本作を鑑賞した者なら誰もが呆気にとられる始めの10分間。

言うまでもなく前作「キングスマン」のオマージュが満載である。前作ファンなら自然と笑みがこぼれる部分であろう。逆に言うならば本作から初めて観た人への配慮も完璧である。

ここではあえて詳しく言及しないので、是非劇場で呆気にとられてもらいたい。

 

そして展開が急変し、本編がスタートする。名女優ジュリアン・ムーア演じるポピーの作戦によって、各地に点在するキングスマンの施設及びエージェントの自宅がミサイルによって吹き飛ばされる。今までの平和は文字通り消え去り、主人公エグジーと観客が絶望に包まれるという、物語においてとても重要な役割を担うシーンである。予告編にも大々的に使われている部分ではあるが、これが私たちに与える衝撃は相当である。ここで私が驚かされたのは、このシーンを「ただの派手なシーン」で終わらせなかったことにある。

そしてこの場面の秀逸さを語る前に、皆さんに是非説明しておきたいことがある。きっと誰もが何かのホラー映画で観たことがあるであろう演出の一つ、物音がしたと思ったら可愛い動物だった、という演出である。もう少し詳しく説明しよう。

 

 「土砂降りの夜、家に一人でいると外から物音が聞こえる。何か不穏な空気を感じながらも不審な音の発生源を調べに行く。バッとそこをライトで照らすと、そこにいたのはただの可愛らしい猫。ほっと安心しながらドアを閉めると、背後に殺人鬼が待ち構えている。逃げる間も無く悲鳴と共に惨殺される。

 

 このような演出である。きっとどこかで同じようなシーンを観た記憶があるだろう。これは古典的な手法ではあるものの、今でも使われることは多い。これは簡単に言えば「緊張の緩和による安心感からの落差を利用し、恐怖と驚きを倍増させる」ための手法だ。他にも効果は様々なのだがここでは割愛させてもらう。

さてこれを踏まえた上でキングスマンに戻ろう。ミサイルが施設に着弾する直前、エグジーの友人であるブランドンがエグジーの書斎に立ち入ってしまう。そして彼はあろうことかライター型の手榴弾を起動させてしまう。それに気づいた外出中のエグジーはブランドンに「今すぐそれを捨てろ」と叫び、間一髪で爆発を免れたエグジーはほっと胸をなでおろす。しかしその直後...!という演出である。先ほどの演出に大きく通じる手法だということが分かるだろうか。

細かい部分ではあるが、これがもたらす効果は絶大だ。このような演出の一つ一つがキングスマンキングスマンたらしめているのである。

 

 そしてその後の物語の修復も見事である。この映画は前述の通りシリアスな展開になってはいけない。あくまで荒唐無稽なふざけたスパイ映画でなくてはならない。キングスマンの施設を序盤で一掃するのは本作を開始させるためになくてはならないシーンであるが、だからと言って観客の絶望感を長引かさせてはならない。

そこでエグジーとマーリンのあのシーンである。本作を観た人なら思い出し笑い必至の場面ではないだろうか。そのユーモアとシリアスの絶妙なバランスはマシュー・ボーン監督の天才的な技量のなせる技である。その上このシーンが終盤のある重要なシーンに繋がる伏線になっている事もまた見事である。

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さてこの辺りで僭越ながら本作のマイナスポイントも挙げさせてもらおうと思う。だが誤解しないでいただきたいのは、本作におけるマイナスポイントとは、前作もまた良く出来すぎた映画であったがために、その前作と比較するとどうしても見劣りする部分が多少ぬぐいきれないという事だ。

前作「キングスマン」における物語終盤の圧倒的な見せ場。その衝撃によってそれまでのストーリーが全て頭から吹き飛ぶと言っても過言ではない、映画史に残る名シーン。「Lynyrd SkynyrdのFree Bird」が流れるシーンと、「威風堂々」が流れるシーンの二箇所である。誰もがスクリーンに魅入られ、全世界の観客が持っていたであろう映画の常識が音を立てて崩れたシーンである。

そして今作に、このシーンを超える衝撃があったかと問われればやはり言葉に詰まってしまう。今作にも多くの見せ場は用意されており、そのどれもが見事で素晴らしいものではあるが、前作には一歩届かなかったという印象を受けた。

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また、ネットで本作の批評を見てみると否定的な意見も多く存在する。主にみられる否定的な意見が、「主人公エグジーが私情に流されすぎている」というものだ。私はしっかりとこの意見に反論したい。こんな的外れな意見を晒していて恥ずかしくはないのだろうか。エグジーとハリーの航空機内での名シーン中に睡眠でもとっていたのかと疑わざるを得ない。

この「キングスマン」というスパイ映画は、007を始めとする古き良きスパイ映画に最大限の敬意を払っている映画ではあるが、007とは根本的に大きく異なるのである。主人公エグジーは暗殺のために政府に作られた殺戮マシーンなどではない。恋愛をし、友達とバカをするごく普通の青年なのである。そしてあくまでスパイに徹し続けてきたハリーとの差別化を図ったのが航空機内でのあのシーンであり、これは一種のメタ的な構造でもある。この「キングスマン」という映画の主人公はジェームズ・ボンドでもジェイソン・ボーンでもイーサン・ハントでもない、そういった位置づけを見事にやってのけた。

そのため、エグジーは私情に流されて結構。任務のために冷徹になる完璧なスパイなどになる必要はない。それが「キングスマン」であるのだから。

また脚本上の都合で、我々観客がどうしてもエグジーに感情移入するような展開を作らなければいけなかったという理由もあるだろう。あのどこからどう見ても現米国大統領にしか見えない彼のキャラもその一つではないだろうか。

 

最後に私から本作のラストシーンについて話させていただきたい。物語は終わり、エンドロールに向かう直前のシーンである。

この映画の最後を締めくくるセリフは、イギリスの政治家であったウィンストン・チャーチルの有名な言葉の引用である。

"Now this is not the end. It is not even the beginning of the end. But it is, perhaps, the end of the beginning."

(今は終わりではない。そしてこれは終わりの始まりですらない。しかしあるいは、始まりの終わりかもしれない。)

 次に劇場内の誰もが待ち望んだ、車を降りる彼のあの姿。

そしてKingsmanの文字。

エンドロール。

 

一つ言わせて頂こう。

 この世にある全ての映画の中で、このラストシーンに勝るラストシーンは存在しないと。

あのエンディングを目にしてしまったら何度でも劇場に足を運んでしまいたくなる。

これ読んでくれた全ての人に、ぜひ劇場でこのエンディングに溺れていってもらいたい。そしてそのままキングスマンの魅力に溺死していただきたい。 

 

キングスマン」こそがスパイアクションであり、映画であり、エンターテイメントであり、この先の映画史そのものを担う作品ではないだろうか。

 

 ここまで読んでいただきありがとうございました。

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